インドでコロナ従事医師1500人死亡から



 




手術での支持組織



これまでの高名な外科医は手術のときに重要なのは層の理解であると述べてきた。つまり血管、神経などの境界を理解し、残す臓器と残さない組織を明確にして剥離、切除しよというものである。切除する側の組織は支持組織(欧米では支持組織を指す言葉はない)・結合組織と呼ばれるものである。これはリンパ節郭清などでよく説明される伝統的な外科的重要事項とでも言うべきものだ。例えば、気管分岐部のリンパ節郭清を例にとると、臓側胸膜を剥離する、迷走神経を剥離する。気管支の縁を剥離する、気管支動脈を剥離切離する、心膜と結合組織の間を剥離する。などの操作で一塊に結合組織を切除するわけである。残った組織がつるつるぶらぶらなほど完成度が高い!という感じである。これは結合組織内にあるリンパ管やリンパ節を残さずに切離するという目的があって行われている。昔はこの操作を早期肺癌でもルーチンにされていた。局所に癌細胞を含むリンパ管やリンパ節を残しておくとそこから癌細胞が増殖して再発が起きることを防ぐためである。確かに外科医としては局所治療が手術の命題なのだからなるべく残したくはないのだが、それが本当に患者の予後をよくするのかどうか、さらにADLやPSにとって良いことなのかはいまだにわからないし、証明されていない(証明できないといった方が正解)。乳癌領域では郭清範囲が狭まっている。本邦では上葉の早期肺癌であれば気管分岐部リンパ節郭清は省略されることもあるから(選択的リンパ節郭清)昔ほどは癌の残存には臆病にはなっていない感はある。よく疑問に思うのは結合組織を全部切除して残存組織をつるつるにしていいものかということと、支持組織は物理的にそれなりの理由があって存在しているので、切除支持組織選択も考えながらしないといけないということである。リンパ節郭清の意義は物理的に癌細胞を取り除くということである。しかし郭清部分の辺縁に癌細胞があれば残すことになる。また、リンパ節転移のないリンパ節を切除するのは無駄以外の何物でもない。でも取らないとその判断、診断ができないから切除するわけである。その診断(微小なものは特に)は病理学的にしか現状無理である。つまり、リンパ節郭清がOSに与える影響はいまだに不明であるのに完成度を競い合っているという現状がある。昔東京のとある病院が普通の肺癌のリンパ節郭清で胸骨正中切開して両側の縦郭を鎖骨、頸部まで広範囲に行っていたのだが、その方法が一番予後が良いという結果にはならなかった。リンパ系での微小癌の残存がどの程度生存率に影響するのだろう。免疫チェックポイント阻害剤や分子標的剤が処方される現在、それが大きなものではないと考えてしまう私は外科医では少数派であろうか?


コロナ、コロナ、コロナとオリンピック



コロナの猛威はもうとどまるところを知りません。去年の今頃はさほど深刻に思っていなかったはずです。
その頃のコロナの認識は、風邪みたいなもので、かかってもある程度若ければ治癒する。ただ基礎疾患のある人や高齢者は注意した方がいいというようなものでした。欧州や米国と比較してもあまり罹患しない(罹患数は少ない)し、そんなに死亡する人も多くない。というような認識。。。また、そのことから日本人はもうすでにコロナへの抗体があるんじゃないかな。とか、日本人の遺伝子がコロナに感染しても軽症になる何かを持っているのではないかということすら言われてきて、なんか大丈夫じゃないかなという雰囲気はありました。(だからワクチン開発や確保が真剣でなかったのかとは言いません。)

人種の問題なのか。。?という疑問を持っていたのは事実なんですが、ただおかしいなと思ったのはコロンビア大学の加藤友朗先生の情報でした。加藤先生は門外漢の私ですら知っているくらいの、外科医なら誰もが知ってるくらいの名医です。東京大学薬学部、大阪大学医学部を卒業後、市立伊丹病院で研修。95年渡米。米国で脳死ドナーからの肝臓および小腸の移植手術を行っていましたが、最も注目されたのは世界初の多臓器摘出体外腫瘍切除手術を成功させたことです。多内臓移植がご専門、つまり多内臓移植は一般的に,肝臓,胃,十二指腸,膵臓,小腸および,場合により大腸や腎臓を一槐にして同時に移植する手技のことで,肝臓を一緒に移植する場合は完全多内臓移植(full MVT),肝臓を同時に移植しない場合は多内臓移植変法(modified MVT)といいます。肺移植は単一臓器移植です。単純な比較はできませんが、完全多内臓移植は縫合部位が多く複雑です。
まあ、それはどうでもいいのですが、その加藤先生がコロナに感染されたわけです。先生は1963年生まれなんで、去年は57歳でした。私とあまり変わりません。彼はもちろん日本人ですが、感染状態は壮絶だったということです。

記事では入院翌日に急激に重症化し、ICU=集中治療室へ。人工呼吸器やECMO=人工心肺装置に繋がれ、生死の境をさまよった。
彼を襲ったのは、免疫の暴走、敗血症、クモ膜下出血。更に血圧が大幅に低下し続け、救命のため、昇圧剤が上限まで投与された。
その間、1か月は記憶が飛んでいるという。退院までは2か月を要し、「神の手」と称賛されるメスを握る右腕が、脊髄脳神経の麻痺により、肩から上がらない後遺症も続いた。

こんな恐ろしいコロナウィルス感染。。。今考えても日本のものとはウィルスの種類が違うんじゃないか?と思ったわけです。
そして、現実にはもう1年以上長引いて、変異株にて、さらに感染は拡大しています。ワクチンは日本はほとんど入ってきていません。
今、恐ろしいのは新・新・新型コロナウィルスです。欧州(英国)型や、南アフリカ型でブラジル型でなくインド由来変異株です。
スパイクタンパク質にL452RとE484Qの二重変異を帯びているB.1.617株ってやつです。二重変異株って呼ばれています。
4月26日に加藤官房長官が「二重変異株,国内21件 (空港検疫で20件,国内で1件)」と発表しています。これだけでも震えがきますが、さらにB.1.617 + S:V382L (三重変異),ならびにB.1.618 (ベンガル変異型)が出てきました。。。ベンガル変異型は西ベンガル州で感染拡大しているウィルスです。インドが今どんな状況かはニュースでご存じだと思いますが、いまだにインドから航空機が日本に来ています。

これ、、、冷静に考えてオリンピックできるのでしょうか?(そりゃ、個人的にはして欲しいとは思いますが。アスリートの努力もわかっているし。。    でも。。)オリンピックで様々な変異株が日本に上陸して、ワクチンが効果なくとんでもないことにならないかと。。。いまだに医療従事者以外のほとんどの日本人ワクチン打ってないんですけど。。。




コロナ患者の生体肺移植

  
ニュースに”コロナ患者に世界初の生体肺移植、夫と息子が提供…京大病院”という記事が飛び込んできた。コロナ感染中の患者に生体肺移植???と驚いたが、そうではなかった。コロナ患者と書いてあるが、コロナ感染を経験し肺が委縮し呼吸機能が落ちた患者であり、コロナに現在罹患しておるわけではないので、コロナ感染の後遺症での低肺機能患者に世界初の生体肺移植と記載する方が正確だがこのタイトルの方が、一般の人にはわかりやすいのだろうか。脳死肺移植症例の報告は世界でかなりあるようである。生体肺移植自体は脳死肺が慢性的に極めて不足(平均待期期間800日!)している日本では有用な移植法だと認識されている。技術的にも安定している。しかし死体肺移植と異なりドナーの生きたままの肺が必要で、提供者の協力が必要となる。今回の場合は夫と息子ということだった。生体肝移植もそうなのだか、一人きりの人はこの移植を、つまり臓器を提供して欲しいといえる人がいるのであろうか?それには自分の子供を多くと考えれなくもないが、子供が拒否する場合だってありうるだろう。しかも肺をもらう側の患者も元気で、年齢制限があるから、誰にでも提供できるものでもない。この手術はそれら問題点がすべてクリアになり、すべてが適応が合致した極めて稀なラッキー症例であるといえる。コロナ感染後PCRで陰性であること=本当に体内にコロナウィルスが居ないならないとは思うが、手術のタイミングはいつが適当なのだろうか?いずれにしても、移植で助かる人がいる素晴らしいにことは違いないのだが、助からない人が大多数いることも事実であり、外科医の限界といえなくもない。大多数の人にコロナ罹患肺を機能低下させないような薬剤が出ることを期待するが。。。IPの既存薬ではダメなんだろうなあ。

尊敬する外科医とは。。。

  最近、いろんな本に凄腕医師(といわれる医師もしくは自称)の紹介が出ています。そして、その医師は必ず、今までの過去を振り返った記事として、尊敬する外科医は〇〇先生です。とか〇〇先生が私を育ててくれた外科医ですとか言及されています。凄腕医師は大抵は手術の多い病院の部長とか大学教授で、様々な本に反復掲載されています。よく出ている人と出ていない人の差が激しいです。医者でない一般の人(患者さん)は、凄い!この先生に手術して貰いたい!とか思います。また、この凄腕医師が尊敬する医師はさらに神様かもしれないと思ったりします。しかし、同業者(同じ科の医師)の評価は異なることもよくあります。また、患者本人もいざ病院に行くとなんか思ってたのと雰囲気が違うなとか、マジでこの人が名医なの?とか思うこともあるようです。でも本に載っていたから大丈夫だろうといって手術を頼みます。このよくありそうな流れというかパターン。。。

 医師が患者の場合は少なくともそんな雑誌の紹介では執刀医を決めません。ある程度腕や噂を知っていますから。あなたが患者だとします。例えば肺癌で隣接臓器の一部に肺癌が浸潤しています。ちょっと若い医師には荷が重い感じです。こういう場合、誰に手術して貰いますか?どうやって手術して貰う医者を選びますか? とりあえず近くの大学病院に行きますか?これは患者が医者だったとしても、選ぶのはなかなか困難です。医師でも科が違えばどこに行くべきなのか、ほぼわかりません。同じ科であれば我々医師は学会などで、どういう医師がどういう手術をしてるかはぼんやり知っていますが、詳細は知りません。だから誰がベストなのかはわかりません。しかも、大病院でスタッフが多い場合は誰が執刀してくれるのか不明です。この先生に執刀して欲しいのにぼんくらの2番手が手術することなんて普通にあるからです。日本では基本的に執刀医を患者が名指しして指定することは出来ません。なぜなら、5年目の医師でも30年目の医師でも手術点数、いわゆる手術で稼げる報酬は同じだからです。A先生にして欲しいから頼んだのに、実際はB先生が執刀したなんてことは普通にあるわけです(患者自身は眠っていますから)。そこの正式な契約関係の締結は無いわけですから(口約束でなく、書面の契約などは普通は無いです)。A先生はB先生に執刀させて指導するという必要性も日本の医療では当然ありますし。だから、患者サイドからすると手術は普通にしてくれるだろうなという医者や病院を選ぶことくらいしかできないわけです。

 医師への取材では、あなたの尊敬する医者は誰ですか?という質問が来ることがあります。よくあるパターンは昔の上司とか留学先の教授とかを出すことが多いと思いますが、私の場合はいつもいないと話します。しかし、尊敬する人はいないけど、この人は凄いなと思う人は少なからずいます(手術数では決してないです)。可能なら私の上司になってもらって直接その手技を吸収したい。そう思うことはありますが、そんなこと出来るわけがないので、メールや電話で話しさせて戴きます。そういう医師は過去に3人いました。だだ、それは外科医として吸収したい手技を有している人であり、尊敬できる人なのかどうかは別問題です。なぜならその人のあらゆる事がわかる程は一緒に仕事や生活してないのが普通だと思いますので。その人を深く知っているわけではないですから、簡単に尊敬しているというのはかえって軽い気がします(甲子園球児が両親を尊敬するというのは好感が持てます)。手技に限れば、中でも特にその手技やデバイスを自ら産みだした人(海外の輸入でなく)は凄いと思います。時に私には、その手技は簡単にまねできないようなものもありますが、大抵は自分でやってみるとすぐに出来る手技が多いです。ただ、その手技は動画などを見たり説明してもらえばできるけども、それを思いつくことはできない。また、実践で勇気を持って行うことも難しいでしょう。そういうオリジナリティのある手術を持っている人は尊敬すべき対象なのかもしれません。ただ、手技だけでその人を尊敬できるかというとそんなことは無いですよね。。。ブラックジャックだって凄腕だけど性格はとんでもないところがありますから。性格ならドクターコトーのほうが尊敬できます。えてしてそういう人ってのは変な人が多いと決まってますから。ただ外科医としてその手技に尊敬すべきものがあるという人を尊敬の対象とするのならば、私には尊敬する医師はかなりいます。そういう医師と話をすることは本当に楽しく、自分の未熟さを理解することができます。

65歳からの外科医



Yahooニュースで心臓外科医の天野先生が定年後にどうするかというニュースを見た。

https://president.jp/articles/-/43708?page=1

 外科医がメスを置くというのは大変大きな決断であり、天野先生のように可能な限り手術をする、しようとする人も多い。かたや、大学病院などで肩書きが上の人はもう若い外科医に手術を任して、デスクワークに徹し、会議などのみで手術をほとんどしない人もいる。こういった場合は自分が手術しなくても多くの手術できる医局員がいるから任せるという意味と自分が手術できないかする自信や興味が無くなったという二つの理由がある。しかし、かたや一般病院はスタッフが大学病院のように多くは無い場合がほとんど(多くのスタッフがいる病院もあるが)なので、年をとっても手術をせざるを得ない。嫌でも、面倒でもしなければする人がいないわけである。天野先生は大学教授ながら65歳定年まで精力的に手術をされ、さらに自分の腕を世界に役立てようとされているので、やはり手術がお好きなんだろうなあと思う。凄いバイタリティである。しかし欧米では55歳くらいまでに大きな報酬を得て早期退職し悠々自適な生活を送る医師も多い。

流水腐らず、戸枢螻せず

(りゅうすいくさらず、こすうろうせず)

ということわざがある。常に流れる水は腐ることがなく、常に開閉している開き戸の軸は虫に食われることがない。常に活動し変化しているものには沈滞や腐敗がないというたとえ。同じ事を無意識に延々としている人間は腐っていくのだろうか。手術でもそうなのかもしれない。変化のない同じ手術を延々とすることは、確かにその手術技術は安定するのかもしれないが。それ以上の進歩は無いもしくは少ない。何より同じ事を延々と行うのは、たしかにそれは継続性という意味では大切なことだし尊敬されることではあるのだが、普通は面白くないし飽きてくる。そうすると後進に道を譲るということになるのかもしれない。何か新しい行動を取る。それは新しい手術への挑戦や現在行っていないことを行ってみるなどいろいろな意味があると思うが、同じ事をやっていると時間が早く経過するように感じることは真実である。学生時代の時の流れと40過ぎてからの時の流れは全く感じ方が異なる。あっという間に10年が過ぎている。。。外科医が手術のモチベーションを保つには”手術が好きだから”とか”患者さんに感謝される”という事以外にいろいろあるはずである。それは報酬でも良いし、自分を高めるための自由な活動でも良いし、他の自分にとって新しい何かでも、欧米のようにメスを置いた後の将来への夢でも良いだろう。

人生は1度しか無いというのは事実であるなら、何年も何も考えず水溜まりのごとく何かに縛られながら同じ仕事をして定年を迎えてメスを置くという外科医というのは最も悲惨なものなのかもしれない。。。そんなこと今まで考えたことは無かったが。

オリジナルとザッハートルテ



”オリジナル” とはWikipediaでは

  1. 「独創的」・「独自のもの」という意味。 また、何かに加工されたものの元となるもの。特に、複写複製等に対して用いられる。本項で詳述する。
  2. 既製品に個人販売店などが加工や機能を追加したもののこと。誤った用法であるが、一般的に使われている。

つまり現在行われている手術のほとんどはオリジナルなものではない。しかし手技の細かなひとつひとつには、それぞれオリジナルがあると言ってもいいとは思う。大きな機械の中の部品一つ一つにもオリジナリティがあるのと同じである。精密機械であれば、部品それぞれに特許がある。それはWikipediaの2に相当するものもしないものも存在する。オリジナルであるのかそうではないのかという議論は手術や手技において重要ではあるが、そこに金銭的利害関係がない場合(普通はデバイスが絡まないとあまりない)問題にはなりにくい。しかし、学会などで自分が初めてその発表をしたのに他人にオリジナルかのようにさも初めて発表したかのように言われると、当の本人はいい気がしないのは確かである。また、多くの人が行っていて、どうでもいいような常識的なことをさもオリジナルのように発表する人もいる。こうなると精神的な利害は伴うかもしれない。だから、そういう場合は〇〇先生も発表されていますが~という言い方をする方が良いようなこともある。

しかし、もろ利害関係の発生する商品に関してはそうはいかない。ぱっと頭に浮かぶのはザッハートルテ(Sachertorte)である。ザッハートルテはご存じのようにオーストリアの有名なチョコレートケーキである。ウィーンに行かれたことのある人や興味のある人なら有名な話なのでご存じではあると思うが、実はザッハートルテには2種類ある。

ちなみにザッハートルテのレシピは、チョコレートバターケーキに、アプリコットジャムを塗り、チョコレート入りのフォンダンでコーティングして、仕上げに砂糖を入れずに泡立てた生クリームを添えるというもの。2種類のザッハートルテというのはオリジナルのザッハートルテを生み出した菓子職人フランツ・ザッハーのいた本家「ホテルザッハー」のものとオーストリア王家御用達の菓子店「デメル」のものである。いうなればデメルのザッハートルテは厳密にはホテルザッハーの方が早いのでオリジナルではなく、Wikipedia2に相当するのかもしれない。じゃあ、何が違うのかというと、基本的なレシピはほとんど一緒なんだが、アプリコットジャムの塗る場所が違う。「ホテルザッハー」のはアプリコットジャムがスポンジの中とチョココーテイングの下に塗られているのに「デメル」のものはスポンジの中には塗られていない。こ、これだけかい。。。。という感じなのだが。。どちらがおいしいかは個人差がある。個人的にはあの甘いケーキに甘酸っぱいアプリコットジャムがケーキのスポンジの中にも塗られている方が食感もいいし、味も甘さが緩和されスッキリして好きである。(これは完全に好みで変わる)これにウィーンナーコーヒーを合わせると寒いウィーンでは生クリームだらけの最強のデザートとなる。

この二つの違いはオリジナリティの存在をめぐって裁判になり、「ホテルザッハー」が勝利することになった。まあ、ザッハーって名前があるからなあ。。ただ、デメルはホテルザッハーが財政難の時に融資で助けているので、デメルが助けなかったらホテルザッハーは潰れてオリジナルザッハートルテも現存しなかっただろうと。。。裁判には負けたものの、歴史はデメルが好感が持てるので、食べるのはどちらでもいいかなと思う。デメルトルテに名前を変えて売っても売れないだろうか。。

つまり、真のオリジナルでもそうでないものでも行きつく先は、個人差でその価値が変わるものや、さらなる完成度の高いもので、特に医療であれば患者側にとって有用な利益のあるものであれば、あまりそこ(オリジナルであるかそうでないか)に焦点を置かなくてもいいのかもしれない。



オリジナティのある医療



外科の世界において個人的に私が凄いなと思うのは、やはり全く何もないところから作り上げることやその人です。身近なところで分かりやすいものでは新しい手術手技ということがいえると思います。いわゆるオリジナリティのある医療、オリジナリティのある手術です。本当に何もないところから自分で新しい治療法や手術術式を考えるのは相当困難で凄いことです。私の入局した時点での医局は教授不在でしたが退職されたばかりの岩喬教授は、まさにWPW症候群の外科治療でオリジナリティのある手術を持つ稀有の存在でした。全国のみならず海外からも患者さんが大学病院に集まってきていました。なぜなら、当時その手術を施行しているのは唯一無二であったからです。岩先生は1987年に不整脈外科研究会を発足されました。その会は現在も続いています。研究会発足当時は心室頻拍やWPW症候群などに対する外科治療が主たるテーマでしたが、現在はカテーテルアブレーションを含めた心房細動に対する外科治療が中心となっています。しかし残念ながら、日本の第一人者と呼ばれる外科医のオリジナリティのある仕事は大変少なく(しかし岩先生のように各分野で確実にあります)、今はオリジナリティがあるといわれる新しいとされるほとんどの手技は海外から輸入したものです。海外でやっていたことを日本に輸入して手技を広め、そのうえで日本特有に手技やデバイスを改良するものが多いです。勿論、それですら当然、すごい苦労と努力が必要で尊敬すべきことではあります。“日本ではじめて“ や ”○○地区ではじめて“ や時には ”○○市ではじめて“なんて地域への新手技の導入というものは、グローバルオリジナリティーがあるとは決していえないものですが、これでも、少なくとも今まで自分がやらなかったことをやるわけですので、勇気も準備もいります。基礎医学の分野では、たとえばノーベル賞受賞分野では凄いオリジナリティのある業績が実際の臨床医学に応用されています。いわずと知れた免疫チェックポイント阻害剤などはその一つと言えます。外科分野は現在かなりその手技は成熟してきていて、昔ほどなかなかオリジナリティのあるものが出てこないのは当然です。外科治療として現在行われているある範囲は将来的にそれ以外の科の治療に置き換わっていくのは当然かもしれません。たとえば外科治療の革命の一つは痛みのない、創のつかない治療なのでしょうが、ガンマナイフやノバリスなどで実現可能な過渡期にあるとも言えます。勿論そこにはステージなどのハードルはありますから全てというわけにはいかないでしょう。心臓外科での冠動脈バイパス術のようにステント留置にかなりの適応が移行するなんてことも当然考えられるわけです。また、手術の上手さ。。。これを評価するのは難しいです。では外科手技は何で比較すればいいのか。。よく浸透しているのは病院間での手術数の比較です。毎年3月になると様々な出版社から本が出ます。しかし、A病院は年間ある手術が300例、B病院は100例だからA病院の方が手術が上手い!とはなりません。手術数は地域差での患者数の多い、少ないや病院の規模、勤務している外科医の数などで大きなバイアスがかかります。1チームの病院は3チームの病院より手術が少ないのは当たり前です。だから、この手の本での手技の優劣はわかりません。またどの外科医が手術するかでも手術の結果は左右されるでしょう。しかし、オリジナリティのある手術がその病院でしかできなくて患者が集まるのなら話は別で、一つの指標になる気がします。



人間の寿命と生活と医療




最近、人間の寿命に関する話題が多くなってきました。長寿漫画であるサザエさんのお父さんである波平。髪の毛は1本しか無いですし、見た目はおじいさんです。しかし、波平の歳は実は54歳です。実は私は歳で波平を超えました。お母さんのフネは52歳です。1970年代はこんな感じだったようです。つまり、仕事は終身雇用が普通で、55歳定年、平均寿命は65歳でした。つまり、退職して平均10年で亡くなっていたわけです。10年で退職金を使いましょうみたいな感じですね。織田信長が好きだった敦盛。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」「人の世の50年の歳月は下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」は人の一生は五十年に過ぎないという意味ではなく、人の世の時の流れは天界に比べて一瞬でいかに儚いものかということで、人の寿命が五十年であると解釈するのは間違いではありますが、実際この頃の人の寿命は50年くらいでした。では、現代はどうでしょうか?60歳もしくは65歳定年。その後20-25年で死亡。つまり定年後の生活が20年以上続きます。これはひとえにある意味、医学、医療の発展のおかげと言うことが出来ます。癌のコントロール、生活習慣病の予防と治療など、医療従事者はあまり感じではいないことですが、徐々に寿命は延びているわけです。もちろん、医学の発展が人類の生存曲線の延長に寄与するのは素晴らしいことです。人の人生経験を延長させるなんていうのは、ドラえもんの世界のようですらあります。しかし、ここで大きな問題が持ち上がります。定年後の生活はどうするのかという問題です。年金は充分ではないことはもうわかっていますし、今後その額は減少していくでしょう。つまり生活のためには定年後も働き続ける必要がでてきます。さらに、人間は老うと当然病気になります。不老不死とテロメアの関係。テロメラーゼ活性が高いとテロメア短縮が抑制され寿命が延びるように思いますが、癌では悪性のものほどテロメラーゼ発現が上昇していますので、そう単純なことではありません。癌などは寿命が延びる現代、日本人の二人に一人罹患します。そして、個人のみならず基金いわゆる国民全体の税金にその治療費が重くのしかかってきます。そして貯蓄したお金を消費します。もちろん定年後は大きな貯蓄や不労所得で悠々自適な生活が出来る人もいますが、そうで無い人の方がスタンダードです。ということは医学の発展が人間社会を、人間そのものを苦しめる結果になっているともいえます。じゃあ、何のために医者はいるのか。。。病気を治す。治す手伝いをする。寿命(生存率)を伸ばすなどの使命の一方で、かえって社会構造を変化させて人類を破滅に向かわせようとしているのかという気すらしています。肺癌の治療薬である分子標的剤や免疫チェックポイント阻害剤など高額な薬剤が開発され、1年2年生存期間を延長させます。ガイドライン上は当然推奨します。日本の医者や政府は国家予算や医療費のことなど考える余裕があまりなく外国のように保険診療の制限が大きくありませんから、どんなに高額でも推奨治療を行い、基金で補填する傾向にあります’。もう、少子高齢化日本の国民皆保険が破綻するのは目の前です。資本主義社会にもかかわらず生命に対しては社会(共産)主義的な医療提供を日本はしてきました。命は平等という名の下に。米国のように、貧しい人は虫垂炎でも手術が受けれなくて死亡するというような悲惨な事例はあまり聞かないです。しかし国民皆保険が破綻したら、政治によっては日本でもそれが現実化する可能性があります。




ロンギヌスの槍についての考察  



海外の美術館に行き、宗教画を見ると必ずロンギヌスの槍関連の絵画があります。ルーブルのマンテーニャのなどが有名です。ロンギヌスの槍とは何かというと、ゴルゴタの丘で磔刑に処せられた十字架上のイエス・キリストの死を確認するために側腹を刺したとされる槍(聖槍)のことです。残酷にもキリストは処刑場のあるゴルゴタの丘まで、自分の十字架を背負って歩かされたんですよね。。。一説によるとロンギヌスっていうのはこの槍を刺したローマ兵士の名前らしいです。ロンギヌスは白内障で目がほとんど見えなかったらしいのですが、キリストを槍で刺して、その際の血液が目に入り、眼が見えるようになった!らしいです。(なんでや。。すごいな)。ちなみにロンギヌスはよく馬に乗りながら刺しています。磔にされたキリストの胸に槍を届かすには馬乗りの方が妥当なのでしょうか。。。槍を刺したのはイエス・キリストが本当に亡くなったのかを確かめるためとされていますが、当時は心臓で無く肝臓が急所で血液の源と信じられていたため肝臓をめがけて刺したみたいです。先端は心膜腔で止まってたらしいので心筋には刺さっていなかったということです。この刺創の場所なんですが、本当に様々です。職業柄といいますか、観察経験上、この槍は右の第5~6肋間からのものが大勢を占めます。しかし第4肋間から刺されている場合もありますし、相当低い第6肋間のものもありますが、より下はあまりありません。また逆に第3肋間より頭側もあまり見ません。刺されたあとに磔から下ろされた絵では創は意外に前方にあるのですが、刺された瞬間は前腋窩線くらいのことが多い様に思います。つまり、肝臓を刺すにはちょっと高すぎる(頭足すぎる)絵が多いようです。美術館でこんな風にロンギヌスの槍を鑑賞するのは間違っていることはよくわかってます。この槍はなんか複数存在するようですが、あたりまえですが、本来は1本でないとおかしいです。バチカンのサンピエトロ大聖堂に非公開で保管されているらしいですが、非公開なのでわかりません。サンピエトロ大聖堂には行きましたが当然見ていません。でも彫刻の髭もじゃのロンギヌスは槍を持って堂々と立っていました。ちなみにロンギヌスの槍はキリストの死を象徴しており、霊感が強くなるとか、持てば世界を征服できる力を持つとかの意味は無いみたいです。肉体的な死はあまり意味が無く、そのあとの魂の復活が大切だという霊的意義を意味はしているのかもしれません。

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